今回は「522 しないという行為」のつづきです。


子ども時代の昆虫とのふれあいが、どのように子育てに関わっているかの2回目になります。


前回は、昆虫観察をめぐる2つのショッキングな出来事から私が学んだことを書かせていただきました。


それは、彼ら自然界の生き物たちは人間が手を加えなくても、自然の摂理にしたがって立派に生きている。

手を加えることで却ってまちがった方向に進んでしまう。

だから、敢えてしない、意識的にしない、という行為の選択が必要なことがあるということでした。


その学びが、子育てにどう影響しているのかが今回の内容です。

それは、決してネグレクトのことを言っているわけではありませんので誤解のないように。



私たち夫婦の間に娘が産まれたころのことをよく覚えています。

当時は統失をかかえながらまだ会社勤めをしていたときで、布団に入ったままの妻と生まれて間もない娘の寝顔を後にして会社に行っていました。


ひとりではまだ何もできない赤ん坊の平和な寝顔は、将来の無限の可能性を親バカな私に感じさせると同時に、会社なんかに行っている場合ではないと本気で考えていました。

誰がやっても代わりのきく仕事よりも、自分にしかできない我が子の子育ての方が、重大な人生のプロジェクトだと思っていました。今でもそう信じています。


でも実際は、後ろ髪を引かれながら会社へ行っていました。

なので帰宅後や休日は、家族と時間をともにして、子育てにもできるだけ関わるようにしました。

学校行事への参加や子どもを通した親同士の付き合いなども、統失とたたかう支えになっていたかもしれません。かなりの精神的負担を伴いましたが。


children


時とともに子どもも成長し、妻もパートへ行くようになる一方で、私は会社を辞めることになったため、食事の支度を私がする機会もふえてきました。


ある時、妻がパートでいないときに食事の支度を始めようとして、娘の弁当箱が流しに洗われないまま置いてあることに気づきます。

当然のように妻がやってきたことなんだと思いますが、娘も身の回りのことができるはずの年齢になっています。


自分で食べたものは自分で後片づけするように諭しました。

これが習慣になるまでけっこうかかったのです。


気づくと使用済みの食器や弁当箱が流しに出ているので、自分が片付けてしまいたい衝動を抑えて心を鬼にしてそのままにしておきます。

妻が気づいて洗ってしまうことがあると、自分でやらせるように言います。


なぜそこまで執着するかといえば、自分が散らかしたものはその都度片付けていかないといずれ手がつけられなくなる、ということに気づいて欲しいと強く思っているからです。


その証拠に、娘の部屋はゴミ屋敷のような汚部屋でした。この前までは。

幸か不幸か、コロナで部屋にいる時間が増えたため、意を決して断捨離することができたのです。1ヶ月もの時間がかかりましたが。


私にとっての苦労(心の中での仏と鬼のたたかい)の甲斐あって、娘の食器の後片付けもなんとか習慣になってきました。



以上、食器と部屋はほんの一例ですが(二例?)、これは彼女にとって今後の人生に関わってくる問題だとも思っています。


誰かがやってくれるだろうではなく、自分が関わったことには「自分ごと」として生きてほしいと願うからです。

親がいつまでも子どもの面倒を見られるわけでないし、子どもも一朝一夕に一人前の大人になれるわけではないのです。



自然の摂理の中で生きる昆虫に、ヘタに手を加えたために彼らの運命を変えてしまったことを反省して、自分の子どもには、必要以上の世話をやくことで成長を妨げたくない、と思います。


以上、「昆虫に学ぶ子育て」でした。


もちろん虫とは違いますから、時には説明や説得が必要になるのはいうまでもありません。




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